大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和41年(う)1535号 判決 1966年12月19日

被告人 比留川茂

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人扇正宏名義の控訴趣意書記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

控訴趣意第一点事実誤認の論旨について

原判決によれば、その認定した事実は、まず、被告人は、江の島鎌倉観光株式会社営業部電車課に勤務している電車運転士であるが、昭和三八年七月二七日午前一〇時一二分ころ藤沢駅発鎌倉行二両連結電車に約一〇〇名の乗客を乗せて藤沢駅を発車し、石上駅に向け、時速約四〇粁で進行中、同日午前一〇時一五分ころ、藤沢市鵠沼二、二一五番地先の直線コースにさしかかつたさい、約一三〇米前方の単線軌道敷内右側レール(以下、右・左は、総て電車の進行方向に向つていう。)にそい、対面歩行中の本多次郎(当時六四年)を認め、同人の約一〇〇米手前で四回ぐらい警笛を鳴らしたので、同人が電車に気づき待避するものと信じてそのまま(減速・徐行、停止等の措置に出ることなく)進行を続けたところ、約二四米に接近したさい、同人の姿勢が崩れるのを見て危険を感じ、約三五粁に減速し、停車の処置をとつたが及ばず、車体前部の右側突端金具(フット・ステップ)(最下段)を右本多次郎の前額部に激突させ、よつて同人を頭蓋骨々折等により即死するに至らしめたというにあり、以上の事実は原判決挙示の証拠によつてこれを肯認することができる。

ところで、原判決は、被告人が、右本多次郎を現認したさいの注意義務として、同人の歩行場所はレールから約一・二四米(枕木右端からは約七四糎)の巾員を持つ砂利敷の部分で、その右(外側)には巾員約三〇糎、深さ約二七糎の側溝があり、さらにその右(外)側は崖になつていること、右歩行場所は崩れやすい砂利敷で歩きにくく、かつ、待避しにくく、しかもレールから極めて接近している所であつて歩行者が待避せずにそのまま歩行してくれば同人がよろめく等姿勢を崩すことによつて電車の車体と接触のおそれがある状態であるとの事実を認定し、これを前提として、運転士たる者はたえず歩行者の動向に注意し、警笛を鳴らして注意を促すとともに、接近隔離に応じて減速し、危険を感じて急停車の処置をとつても衝突しないで停車しうる程度に運転すべき業務上の注意義務ある旨、および、被告人が前記の如く約一〇〇米手前で警笛を鳴らしたのみでそのまま進行したのは過失である旨判示するのに対し、所論は、右前提事実に誤認があると主張するとともに専用軌道内を運転する電車運転士にはかかる減速・徐行等の義務はない等、要するに、被告人には過失がなかつた旨、縷々主張する。

よつて、所論に徴し、記録並びに当審における事実取調の結果に基づいて按ずるに、本件電車は原則として、専用の線路用地にレールを敷設したいわゆる専用軌道上を高速度をもつて疾走する公共の交通機関というべきものであつて、併用軌道すなわち一般通行人あるいは自動車その他の車両が交通する道路上を運行するものではない(もつとも、一部には一般道路上にレールを敷設した部分もあるが、少なくとも本件事故現場附近は専用軌道である。)から、本件事故現場附近は電車のみが通行するための線路用地内であつて、一般人が通行することは許されないものといわなければならないこと、しかるに現実には前記軌道が人家の間を通つており、また、国鉄の駅あるいは繁華街に到る近道であることその他の事情により過去久しい間附近の居住民はその線路用地内を歩行しており、会社においても一般人の線路用地内の歩行を厳重に取り締らず、事実上これを黙認していたかの如き状況にあつたこと、これら一般人の通行の事実は電車運転士たる被告人も十分承知していたこと、本件事故の被害者たる本多次郎は大学教授にして、事理を弁別し得る者であることは疑なく、年令六十四才と雖も格別歩行に困難をきたしていたとは窺い得ず(もつとも、難聴者で常時補聴器を使用し、本件事故当時もこれを携帯していたことは認められるが、これを耳に使用していたか否かは確認するに足る資料はない。)、同人は事故当時藤沢駅より南進する本件電車に対面して、前記線路用地内を歩行していたものであること、しかして同人が歩行していた右線路用地の状況は、両側の私有地よりは一段と低く、高さ約一米の石垣または角材によつて略々垂直に土砂止めの設備(原判決が「崖」と判示しているのは、この状況を指称することは記録上明らかである。)が施された低部であり、右線路用地の略々中央部に枕木、レールが敷設され、右側レールの外側部の状況は、原判示のような巾員に砂利が敷かれ、巾員約三〇糎の側溝が設けられ、次いで前記土砂止めとの間に巾約一〇糎の平坦な部分がある場所であつて、同人は右側レールの右外側に敷かれた砂利の上を歩いていたこと、本件電車の巾員(被害者に衝突したフット・ステップを含む。)は約二・五米であるから、電車の停止時の状況としてみる限り、電車の右外側から側溝左側までは約六〇糎の間隔があること、同人がそのまま歩行を続けるにおいては、電車と接触ないし衝突の危険が存するも、砂利敷の部分を側溝左側まで体を寄せれば、電車の横振動、風圧等を考慮に入れても、電車との接触は避け得られる状況にあり、まして、側溝内(なお、その中には、水はなく、上砂、砂利等が落ちこんでいる。)に足を入れ、あるいは僅か三〇糎の側溝を跨いで立つならば、もはや絶対に安全ともいえる程であり、右の如き待避は、僅かに半歩ないし一歩の歩を選ぶ動作によつてすむことであることが認められるところ、一般人の立入を厳重に禁止された専用軌道における場合なれば格別、本件の如く専用軌道とはいえ附近の住民が多数平素より通行していた場所であり、かつ、このことを十分認識していた電車運転士としては、専用軌道であるとの理由によつて運転時間の正確を期するため常に減速徐行の義務がないとか、過去において通行人が自ら避譲していたから常に必ず避譲するであろうと軽信することは許されないものといわなければならない。かかる場合、高速度で疾走する交通機関と雖も、通行人において事理を弁別し得ず、あるいは電車の接近に気付かず、気付いても待避に困難な特別の状況があるが如き場合には、運転士においても不測の事故の発生を防ぐため万全の注意をなすべき義務のあることは当然である。また、他方、通行人においても、かかる一般の通行を許されない場所を歩く以上、自らの責任において深甚なる注意をもつて電車の住来を妨げないよう、また、事故発生の危険(電車の振動、風圧、足元の安定その他あらゆる不測の事態の発生の危険)を回避するための万全の措置を講ずる義務のあることも多言を要しない。専用軌道なるも平素一般人が通行しておるからとて、恰も一般の道路を歩行するが如き安易な態度は誤れるも甚しいといわなければならない。

よつて、これらの事実を勘案し、本件において被告人の責任の有無につき按ずるに、前記説述の如く、本件事故現場は一三〇米以上の直線軌道であつて、視界を遮ぎるものなく見通し良好なること、本件被害者は事理を弁別し得る成人であつて、電車に対面して歩行していたこと、被告人は現場より約一〇〇米手前から数回に亘つて警笛を鳴らしながら進行したこと、(約一〇〇米手前より事故現場までの所要時間は時速四〇粁として約九秒)事故現場が前記の如く避譲困難な場所とは認められないこと、被害者がよろめくが如く姿勢が崩れるのを見て減速すると共に急停車の処置をとつたこと、及び被害者は難聴者ではあつたが、証拠上電車の進行し来るのを認識していたと推認し得ること等に徴すれば、被告人は専用軌道の電車運転士として本件場所を運転通過するについて、他に特別の事情のない限り、安全運転、危険防止の措置を尽しているものというべく、被害者が予め避譲するものと信ずるにつき特に責むべきものありとは認められないと判断するのを相当とする。記録を精査し、当審における事実取調の結果を参酌考量するも、前記認定を覆し、被告人に責任の存在を認定するに足る十分な証拠は発見することができない。原判決は通行人がよろけること自体をも被告人の予測すべき事情の如く判示するも、本件においては前記の諸事情に徴し、かかる事情は運転士たる被告人にとり全く予期せざる意外のことに属するものというべく、これを以て被告人の注意義務に欠缺ありということはできない(又被害者が難聴者であつて、補聴器をつけていなかつたことを以て被告人の責任の有無を論ずる資料とはなし難い。)。

これを要するに被告人に本件過失の責任を問うに足る証拠は見出し難く、かえつて、本件は、被害者において、立入禁止の線路用地内を通行する以上、常に電車の動向に注視し、自ら危難回避のため万全の措置をとるべきであつたのに、電車の進行を察知しながら、従前の慣行に押れて事態を軽視する等の事情により、直ちに停止して待避することもせず、そのまま歩行を続け、不幸にも、電車直前によろめく等、被害者としても不測の事態により、僅かに電車前部右側の突出部(フットステップ)に接触するに至つたものと推認される。

もとより、人命は、いかなる場合にも、たとえ本件被害者の如く禁を犯して通行する者についても、最大の尊重が払われなければならないことは、いうまでもない。しかし、そもそも本件は、右の如く、被害者の線路用地立入りに端を発するところ、同所は、過去久しく、多くの者が通行していたこと、これに対し管理者側においても、事実上、これを黙認しているの観を呈する実状にあつたことは前示のとおりであり、本件記録によつてこれをみる限り、立入禁止ないし危険防止のため、管理者側において果して十全の措置を講じていたものかどうか甚だ疑わしいのであるから、ひとり本件被害者の立入り行為のみを責めるのはいささかあたらないとともに、人命を尊重し、危険の防止を図るのあまり、施設の不備の責を被告人の如き電車運転士の注意義務に転嫁、多くを期待することは酷に失するものといわざるをえない。

してみれば、企業体としての責任について論議の余地はあるとしても、前叙の如く、本件被告人の過失責任を認めるに足る証拠はないことに帰着し、これを有罪と認定した原判決には、注意義務についての解釈を誤り、ひいて判決に影響を及ぼすことの明らかな事実を誤認したものといわざるをえず、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。

よつて控訴趣意第二点(量刑不当の論旨)に対して判断するまでもなく、本件控訴はその理由があるから、刑事訴訟法第三九七条第一項に則り原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により、当裁判所においてただちに判決する。

本件公訴事実は、被告人は江の島鎌倉観光株式会社営業部電車課に勤務している電車運転士であるが、昭和三八年七月二五日午前一〇時一二分ころ藤沢発鎌倉行下り二両連結電車に約一〇〇名の乗客を乗せて藤沢駅を発車し石上駅に向け時速約三六粁で進行中、同日午前一〇時一五分ころ、藤沢市鵠沼二、二一五番地先の直線コースにさしかかつたさい、約一五〇米前方の単線軌道敷内右側を下を向きながら対面歩行中の本多次郎を認めたが、平素同所附近の軌道敷内を屡々通行人が通行していたことは被告人も知悉しており、このような場合、電車運転士たるものは、該通行人に対し警音器を吹鳴して警告を与えるのはもちろん、これに気づかず、軌道敷内の歩行を続ける者に対してはその動向を注視するとともに、適宜電車の進行を停止し、またはその速度を減じ、該通行人を軌道敷外に避譲させ、その安全を確認した後、進行通過すべき業務上の注意義務があるのに被告人はこれを怠り、右本多に約八〇米に接近したさい、短危警笛を四、五回断続的に吹鳴したのみで、同人が右警告に気づかず、いぜんとして下を向き、そのままでは電車に接触すべき従前の位置を占めたまま対面歩行を続けるのを知りながら同人に自車を接触することはないものと軽信し、漫然、従前の速度で進行を続けた業務上の過失により、同人に自車右前部を衝突させて附近にはね飛ばし、よつて同人を頭蓋骨複雑骨折等によりその場で死亡するに至らしめた、というにあるが、前段説示の理由により、これを認めるに足る証拠がないから、刑事訴訟法第三三六条により、被告人に対しては無罪の言渡をすべきものとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 三宅富士郎 江碕太郎 金隆史)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例